人間関係地獄絵図

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 人間同士、見てきたものも本も経験も違うのだから、その人の「あたりまえ」も「常識」も必然的にずれていく事になる。だが、共同ですり合わせながら生きていかなくてはならないので、その寄り集めた「普通こうでしょう」という本質的には偏見というものさしをあててお互いを認識していく。半年ほど前職場の人間と揉めた時にそれを痛切に感じた。「こうするのが当たり前でしょう」がそういったお互いの言い分が食い違い続けた。何度話しても、そもそも言葉が通じず、互いに「話す事が無駄」という結論に至った。ドライな関係に持っていけたらばどれほど良いだろうと思ったが、それも叶わなかった。

 不愉快な自分とは相いれない人間が同課内で目に移り、会話をすることが強要される。そんな空間では苦痛にしかならず、結局は相手の退職にて終焉した。

 人間関係、そして常識のすり合わせはなんと難しいことだろうと教訓を得た。

 

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ここからは少し話がずれるが、その普通ってものの話。

 インターネットが日本人みんなが使う世の中になって、確実に「当然」というものは広く認識された。常識としてみんながそれをSNSやインターネットコミュニティで取り入れる事で、全体的には良い方向に向かっているとは思う。

 ブラックな会社で努めている人はその会社から出られずにいた。しかしそれは間違いだと流布されている。学校の教室でいじめられている子どもはゲームなどで外の世界とつながる手段を得て、閉じたコミュニティからは簡単に出られると知った。日本人として礼節通りに働く人のが当然と思っていた人は他の国での「電車は遅れるのが普通」「レジ打ちは座ってだるそうに仕事をするのが普通」そういった当たり前が壊される情報を得た。そうか生きるってのはもっとフランクでも良いのかと納得した人もいるかもしれない。

 

 とまあなんか、それっぽいような言い回しでしゃべるが、それでも案外開いているようで閉じていたりもして。あなた専用にカスタマイズされた情報はそれぞれのスマートフォンで偏って取り入れられる。

 それがまた新しい肩こりみたいなめぐりの悪くなったものとして別のしこりも起きているんだろうけれど。

 当然インターネットだけじゃない。女の子たちは女の子だけのコミュニティの当然を見ている。男は男だけの当たり前を並べる。高年齢は高年齢と。学生は学生と。高収入は高収入と。アーティストは。仕事関係は。宗教は。

 

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 とまあ割合長く書いたが別に何処に着地するまでもない、あなたの目の前にいる人は思った以上に別の人種なのだという事を普段から考えるようになった。そしてその偏見は上手にすり合わせる機会すら、機能せずに時に壊れるもんである。

 

 大分とっ散らかった話を書いた。チラ裏としてでも読んでくれていたら嬉しい。話に落ちを付けるなら「ごめんなさい」と「ありがとう」と「おはようございます」がぎりぎり言えれば実は案外問題は問題として放棄して、次の時間を一緒に過ごしていける可能性は上がるくらいには思っている。

 また月曜日に。土日作曲がんばるぞ。