熱が通る

スポンサーリンク

 金曜日。帰宅して、ぼんやりとする。体調が回復して、珍しく人と多く接する機会があり、ようやく一息とする。どの方々もようよう優しくしていただいて、自分なんかはとりあえず、さしみのつまというか人込みのノイズのような人間なので、会話をしてもらうだけでありがてえなという気持ちは持っている。

 

 帰宅し、弁当を食べてアニメを見る。そういえば体調を崩したり作曲に夢中になったりで、まっとうに見るのは久しぶりである。社会人で作曲に人生の比重を大きく傾けているとこういう時間はなくなっていたと気付いた。人生の時間の配分がどうしても仕事に偏る。ふつうのひとという肩書を得るためにはふつうのひとでいなくならなくてはならないんじゃないかなんて思う。仕事は長すぎる、心がどうやったって壊れ気味になる。そんなふうにどうしても思ってしまうのである。次はどんな曲が良いだろうと片手間に好きなコード進行をDAWに打ち込み、なんとも良くなる気配もなく、ダンジョン飯をサブスクで見ながらこの文章を書いている。明日には新曲videotapeを投稿する。年末年始に書いていた曲を点字さんに歌っていただいた。制作の話や歌の話は一旦置く。

 

 たんなるビデオテープの話。自分の中の悲しい気持ちを上手くろ過して形に出来た。今はもうレコードやカセットテープ、フロッピーディスクのようにビデオテープは「そんなものあったね」という映像媒体となった。今はもうスマートフォンに、パソコンに映像はaviやmp4で保存され劣化もされないまま記録されていく。最近はレトロブームという事でレコードやカセットで音楽を聴かれることもあるらしい。ビデオテープの消費期限は二十年と言われているらしい。二十年が寿命。そこでは壊れてしまうわけである。なんだかいっそ愛おしいとすら思う。永遠に残ってしまう媒体はなんだか恐ろしくも感じる。劣化して、忘れて、勝手にこんなんだったよね?そんな程度で記憶は良い気もするわけだ。ないしは最初から事実を転写した本のようなもののほうがいくらかよい。なんならどんどん精細になるテレビ映像もディスプレイも怖い。アップにしたら毛穴でも見えそうなテレビ番組の映像。永遠なんて怖いことはない。精細なんて恐ろしい。ずっと誤魔化させてくれ。そんな風に思っている。

 

 ただの怖がりである。高校生以降自分は映像に残るような人ではないというか、自意識が高いのか低いのか。映像もカメラも避けて生きてきた。たまに気分的な高揚でいきなりピースで画面に映ることもあったが、おそらくは平均的な人々に比べてほとんど残っていない。今は全人類言葉はログに残り、誰がどこで撮影、録音していなくはならない世界になった。それは削れず永遠に残る。大人は面倒といい、子供はそれを当然と受け入れる。良いとか悪いは置いておいて、そんなもんかと無理に飲み込んで納得させる毎日です。

 アニメを見ながら書き終わってしまった。落ちもないけれど。手持無沙汰とは、制作者に失礼かもだがまあダンジョン飯は漫画で読んでいたのでいいだろう(よくないんだろうな)。ただそんな風に良いも悪いも、感情を定めようにも相手にも自分にも定められず生きております。明日は新曲をどうか聴いてもらえたら嬉しいです。とっても良い曲です。とっても良い歌です。