壊れたおもちゃのねじを巻く

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 コロナウイルスに感染後した。その後にばきりと音を立てて作曲の推進力が折られて、そこから進んでいない。最新作は青と雷雨とブリキの如雨露から進んでいない。手が進まないときは余計な事というか、考えばかりが先行してしまって本来やらなければならない事から離れて余計な思考になってしまう。でもまあ、そんな話も面白いかとブログに書いてみる。

 

 音楽を最も聴く世代は十代らしい。それについて再度色々と考えていた。十代に刺さるのは十代の考え方や悩みであることは間違いがない。

 結局自分の事が一番わからず、自分の事を紐解くことを最も行う世代がそこだ。俺の過去の曲たちも、おそらく二十代前半で作った曲が、共感という面において、力を発揮したと思う。

 

 しかしもう、当然に僕は十代ではないし、例えば学校やモラトリアムで育てられるお腹の底に溜まり続けていた怒りや悲しみのようなものは恐らくはセカンドアルバムまでに吐き出し終わっている。もう一度描く事があったとしても。それはそこから一度、すべてを吐き出し終わっているという事実だけは変えられない。

 

 じゃあ今一番抱え込んでいる、何とも言えない社会人での苦しみや嗚咽を作ろうとしても一番音楽を聴く世代には同じく響くものが少ない。おとなになった人々は音楽というものに憧れも理想もなく、殆どの人々が遠く離れていってしまっている。懐かしんで当時の曲を喜んで聞いている。

 

 下手に知恵がつき、そして内側からあふれかえっていた感情を失って。じゃあ自分はどうしたらいいのかと考える。多くの人に聞かれる事が正解ではないけれど、誰にも届かずに消える音楽を作る事もまた違う。

 もちろん今も聞いてくれている人に届いてほしいし、欲深い人間としてはできるだけ遠くまで知らない人が泣いてくれるような音楽を作ってみたいとは思う。

 

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 自分がどんなものを作りたいか、自分がどうなりたいか、自分が何が出来るか。それぞれは結構いびつに絡まっていて、全部が綺麗に解けることはない。それでも結局は誰かが泣くよりは自分が泣きわめく曲が書きたい。そうなるとまた、遠くまで届かない同じ場所でぐるぐるとまわるものを作り続ける事になってしまう。

 結局正解はない。ただ作り続けるほかない。しかし、こうやって延々と座り込んで地面にまるを書き続けるみたいな文章は無駄なんだろうか。

 

 狙って書きたくないのに。狙って書きたい。それは何処を狙うのかというとマア、自分の新しい音楽を探すしかない。長々と書いた割に着地点が実はない。本当にまいったねえとちゃらちゃらとアコギを鳴らしつつ曲が生まれるのを待っている最近です。おわり。

 

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質問箱「恋の話って誰に聞いてもらったらいいんだろ?」

 

 だれとかないよ!友達に聞いてもらいな!友達がいなけりゃ親でも兄弟でもいいよ!

 聞いてもらうのがだいじだ!多分。多分。

 

質問箱「ツズキを初めて聴いた時から『代わり映えもなく変わってゆく』という歌詞が凄く好きです。何で好きなんだろうと考えたこともあったけれど理由は見つからず、それでも頭から離れないし何回聴いてもこの歌詞好きだなぁってなってます。不思議ですね!」

 

 不思議ですね。俺も凄く気に入ってます。代わり映えもなく変わってゆくって何か書いた時にそこまでこう、おお~そうに違いない!とかそういう歌詞でもないけれど、誰かが歌ってた覚えもないし。でもなんか言葉としてしっかりと形が明確にあるし。なんか、あーわかるわかるーわかるけどまあ普通な言葉だけどーなんか好きだなあって思います。

 かなり前の曲だけど聴いてくれてありがとう。

 

 またあした。